私の実家は離婚一家で、母が5人の子供を女手一つで育て上げました。
母は離婚する前、自営業の父の手伝いとして無給で1日中事務所の従業員の方のために寮の掃除や、毎食3食のご飯作りを50人分1人で負担しその合間を見て子育てと自身の家の家事などしていました。
当時の母が眠っているところを私達兄弟は1度も見た事がありませんでした。
ご飯を食べているところさえ見た事がありませんでした。
私達兄弟の母の記憶は、背中に三女、前に次女を抱えて、私の手を引きながら家と事務所を忙しく行ったり来たりする姿だけでした。
父は絵に描いたような亭主関白で、取引先の方や、友人、従業員の方に母を紹介する時に
「うちの愚妻」と紹介していました。
その言葉の意味はよく分かりませんでしたが、母が馬鹿にされたような気がして私は父に怒って母に謝るように迫ったそうです。
私自身はその事をすっかり忘れていましたが、母はいまだに覚えていて
「あの時あの言葉に救われたの。私のしている事は無駄ではないと思えた。」と話してくれるのです。
それから程なくして、母と父は離婚することになりました。
原因は父の暴力と、女性問題でした。
家を出て行ったあの日の朝、母は家中の家具やキッチンのシンクを撫でながら
「置いていってごめんなさい、行ってきます。」と涙を流しながら話しかけていました。
父を信じ、愛し続けて尽くした母の14年はそこで一旦幕を閉じました。
離婚してからの母はみるみる内に痩せていきました。
祖母の家の仏壇に向かって、泣きながらひとり言を1日中話していました。
そんな母が消えてしまいそうな気がして、ある日の朝私達兄弟は母にしがみついて意味も分からず泣きました。
中学生になっていた1番上の兄は、泣きながら
「俺たちはずっとお母さんの味方だから絶対死ぬなんて思わないで。」と言っていました。
母は泣きじゃくる私達を1人1人抱き締めて、1番上の兄の手をしっかり握り
「お母さんは、あんた達が生き甲斐だもん。死なないよ。」と笑っていました。
離婚してから泣いてばかりだった母は、その日以来初孫の私の息子が生まれるまで一切涙をみせなくなりました。
離婚してから、5人の子供を必死に働きながら育てた母は一層忙しくなってしまいましたが、そんな母が私達の誇りです。
今年定年を迎えた母が、同じく母親になった私にこんな事を言いました。
「母は強しで子も強し」と。
私も母のように強い母になりたい、そう強く思っています。
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